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1615(元和元年)織田信長の二男信雄(のぶかつ)によって、生活用水や灌漑、水車用水などに使われてきた「雄川堰」。
一時は危ぶまれたその流れも、地元町民や行政の力で清らかな流れを取り戻し、再び人々の暮らしを見守っている。
では、時代の流れをさかのぼり、過去への時間旅行へと出かけよう。
栄枯盛衰とは、良くも言い当てたもの。
鎌倉から戦国時代にかけて、この地に豪族・小幡氏が定着、本拠を構えた頃から、この町の時代は始まる。地方豪族の例にもれず、活気ある町やコミューンが広がっていったのだろう。
その後の秀吉による「小田原の役」の後、家康の娘婿「奥平信昌」を初代藩主、二代目「水野忠清」に続く、三代目藩主「織田信雄」が「雄川堰」を整備したといわれる(実務を行ったのは信雄の四男の信良)。この頃がもっとも栄華を極めた頃だったのだろう。

やがて代が代わるにつれ藩財政は悪化しはじめ、明治の世となる頃には、新しい街道からも外れ、今では町並みの面影しか残されていない。

それでも、そこに暮す人々には力があり、「道」にはそれを支え見守る温かさがあったのだろう。
ここを訪れ、旧跡に触れ、古い町並みの面影にたたずみ、そして、今でも弾けそうな人々のパワーに触れたとき、そんなことを考えてしまう。


アブラゼミの鳴き声がヒグラシの声に変り、スズムシの音が聞こえてくる頃、一度ここを訪れてみたらどうだろう。
四季それぞれ見所のある「雄川堰」だが、筆者は、用水脇の桜並木の葉が枯れ始める、初秋にそぞろ歩くのが好きだ。
「栄枯衰退」などという、大ロマンを考えながら。
DATA  
小幡(おばた)城下、雄川(おがわ)堰

【住所】〒370-2202
群馬県甘楽郡甘楽町小幡

【交通】上信電鉄上州福島駅から
乗合タクシー那須行きで5分、
資料館前下車、徒歩1分

【駐車】甘楽町物産センター駐車場他

【問合】 0274-74-3131
甘楽町役場産業振興課
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