栄枯盛衰とは、良くも言い当てたもの。
鎌倉から戦国時代にかけて、この地に豪族・小幡氏が定着、本拠を構えた頃から、この町の時代は始まる。地方豪族の例にもれず、活気ある町やコミューンが広がっていったのだろう。
その後の秀吉による「小田原の役」の後、家康の娘婿「奥平信昌」を初代藩主、二代目「水野忠清」に続く、三代目藩主「織田信雄」が「雄川堰」を整備したといわれる(実務を行ったのは信雄の四男の信良)。この頃がもっとも栄華を極めた頃だったのだろう。
やがて代が代わるにつれ藩財政は悪化しはじめ、明治の世となる頃には、新しい街道からも外れ、今では町並みの面影しか残されていない。
それでも、そこに暮す人々には力があり、「道」にはそれを支え見守る温かさがあったのだろう。
ここを訪れ、旧跡に触れ、古い町並みの面影にたたずみ、そして、今でも弾けそうな人々のパワーに触れたとき、そんなことを考えてしまう。
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