「白井宿」は、その意味からすれば、旧街道に栄えた宿場町ではない。城下町である。
当時この付近には、佐渡金山管理のための佐渡奉行が現地に赴く際の近道となる「佐渡奉行街道」、沼田藩主が参勤交代に使った「沼田街道」、江戸から三国峠を越えて越後に通じる「三国街道」などが交差していた。さらにそれらの街道は、「中仙道」、「日光例幣氏街道」「会津街道」などと分岐していた。
「白井城」は、そんな交差点を見下ろす高台にあった。その城下町は、いわば「本通りの交差点から一歩入った歓楽街」だったといわれている。「白井は、京洛の如し」ともいわれたほどだったらしい。
宿場街らしい、中央のまっすぐな用水路。それにそって、点々と設けられた釣瓶(つるべ)式の井戸。用水路を、まるで守る様に植えられ、今でも憩いの木陰になっている八重桜の並木。さらに、用水路を左右に挟む、一方通行の車道...
そんな町並みの中を、学校帰りの小学生たちが、大きな声を出しながら駆け抜けていく。
すべては、不思議な錯覚だったのだろうか。
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